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【非行 ひきこもり】生きる価値

この記事は5分で読めます

こんにちは。

 

今日は昨日フェイスブックに投稿した内容を転載します。

 

先日のブログ内容をより細かく書いていますので、再度ブログの読者のあなたにも考えていただきたいことですので。

 

〜以下Facebook記事〜

【社会に突きつけた問い】

こんにちは。

桜が週末には満開ですかね!

今日の内容は、昨日クライアントのお母さんと話したことなのですが、とても重い話になるので、考えたくない、見たくない場合や、柔軟に物事を考えられる余裕のない方や感情論でしか捉えられない方はこれ以上絶対に読まないでください。

2016年7月に発生した相模原障がい者施設無差別殺傷事件で入所者19人を殺害し、26人に重軽傷を負わせた戦後最悪の事件の被告(当時26歳)に先日死刑が下されました。

私が仕事で相談にのるご家庭にも多い世代が起こした事件だけに、この事件はとても考えさせられるものでした。

現場となった施設で働いていた当初は遅刻や態度が悪いことがありつつも「あの人(入所者)は可愛い」などと仕事に前向きに取り組んでいる側面もあったとのことで、どこから彼が変わってしまったのか?

 「意味のない人間、役に立たない人間、生産性のない人間に生きる意味はない」

と言う無茶苦茶な論理に怒りを覚える反面、「感情だけで捉えていい事件なのか?化け物のような心がない人間がやった悲しい事件ということで終わらせていいのか?」とも考えるように当時からなっていました。

以下、植松死刑囚が過去に発言した言葉になりますが、あなたはどう考えますか?

 

・「障害者が人間ならば、彼らが罪を犯した時、同様に裁かれるはず」

・「知的障害を理由に裁かれないと言う事実は、彼らが人間ではないことを証明している」

・「氏名が公表されず、遺影もない追悼式は、彼らが人間として扱われていない証拠と考えています」

・「私は介護施設で数年間現場で働いてきた。彼らが家族や周囲に与える苦しみ、そして使われる膨大な費用、職員が置かれている過酷な労働環境を見てきた。あなた方はなぜ、施設に足を運んだことすらないのに、理想論をさも正論のように述べることができるのか?あなた方は一度でも介護に携わったことがあるのか?少しでも現場を知れば、介護は綺麗事だけではないことがわかるはずだ」

 

そして、以下のやり取りも心に突き刺さるものでした。

 

A「障がい者の方々の家族が幸せを感じていることもたくさんある」

被告「それは不幸に慣れているからそう思うだけだ」

 

この一つのやり取りを見た当時の私に自信を持って断言するだけの反論はできませんでした。

 

これは日常生活の中にもあることです。

 

A「やりたいことをやって生きるって幸せ」

B「やれることだけやってるだけでしょ?」

 

とか

 

A「一人の方が好きなんだよね」

B「誰かと向き合うことを避けてるだけでしょ?」

 

とか

 

A「あなたのことを想って・・・」

B「自分が嫌われたくないのが先でしょ?」

 

などなど。

 

私たちが普段避けていたり、蓋をしていることに直球ストレートに刺してくる返しですよね。

 

そして、植松死刑囚が何度も口にしてきた

 

 「意味のある命」「意味のない命」

 「役に立つ人間(命)」と「役に立たない人間(命)」

 

という二極化した捉え方かつ、意味のない、役に立たない人間は不要という考え方。

 

彼の中での、人間か人間ではないかの基準として

 

  『自己認識ができているかどうか?』

 

というものがあります。

 

自分がどんな人間で世の中に対してどんなことで貢献できるのか?役に立つのか?
それができない人間に生きる資格はないと突き放しているわけです。

 

意味のない、役に立たない人が人間ではない、生きている意味がないとは、1万歩譲っても思わないですが、組織で働いていた当時、やる気のない同僚や上司に対して

 

 「やる気ないなら邪魔だから辞めろよ」

 

と内心思っていたことが20代半ばまでは事実としてあります。

 

今回の事件の死刑囚に対して

 

「死刑に値する罪を犯したのだから当然の報いだ」という考えもありますが、その考えの通りでいくのであれば、先ほどの彼の言葉にもあったように、障がいがあったとしても同様のことを犯したら平等に処罰されるべきだということにもなります。

 

施設で働く人やこれまでの人生の中で、障がい者からわいせつな言葉をかけられたり、触られたり、殴られたりと嫌な気持ちになった人たちもいます。

 

「障がいがあるし、悪気があるわけではないから、許してあげて」

 

などの言葉をかけられても、そうそう許せるものではありません。

 

もし自分の大切な人が同様の被害以上の事件(殺人など)の被害者になったとして、加害者が障がい者で無罪となったとしたら、徹底して障がい者を装って仕返しをする可能性もあるんじゃないか?

 

などと思う時もあります。

 

障がいがあっても、寝たきりであっても、誰かの生きる力になっていることが大半です。

 

命が尽きたとしても社会の役に立つこともあります。

亡くなった後でも献体することで医療に役にたつなどもあります。

 

私の祖父は脳神経の難病で亡くなり、生前から献体の意思があったので、亡くなった直後に家族で話し合って脳だけ提供しました。

 

私も臓器提供意思表示カードは持っていますし、母親もそれは知っています。

 

話を戻しますが、絶対にやってはいけないことを犯した今回の犯人が死刑に相当するということは個人的に思っていますが

 

 感情論を抜き

 

で考えると、この事件は一人ひとりがもっと真剣に本気で向き合わなければ、結果として同様の事件がまた起きたり、子供たちをはじめとする自殺の問題の解決にも繋がりません。

全体の自殺者数は年々減っているにも関わらず、未成年の自殺者数は前年よりも

 

 33%増加

 

しており、高校生に関しては

 

 42%増加

 

しています。

 

一見関係していないように見える今回の事件も、掘り下げていくと

 

 生きる意味(価値)

 

という共通の問題にぶつかってきます。

 

生きている価値がない、生きていく意味がない、、、こうした問いを身近な人が投げかけてきたら、あなたはどう受け止めて、どのように本気で返していきますか?

 

未成年の自殺が増えているということは、周りの大人がこの問題に応えられていないことも原因だと思います。

 

コロナの問題でもイメージしやすいかもしれません。

 

病院にあと1台しか呼吸器がない状況で10代の患者と90代の患者、共に同じレベルの症状ですぐに決断しないと二人とも死ぬ可能性がある時に、どちらに使いますか?

 

トロッコ問題と似ているかもしれませんが

 

 ’’平等’’や’’対等’’
 ’’規範主義’’と’’功利主義’’

 

などを考える上では避けては通れない問題です。

 

遅刻があったり、雑な仕事に対する姿勢があった中でも、前向きに働こうとしていた時期があった植松死刑囚がなぜ、ここまでの結果を起こすくらいに変わってしまったのか?

 

福祉の働く環境や職員の方々、ご家族の方々のケアもより一層考えなければなりませんが、一人ひとりがこの死刑囚の本気の問いに、自信を持って断言して向き合っていける力をつけていくことが、結果として今回のような事件を二度と起こさせず、更生の確率を高めたり、子供たちの自殺を減らす大きな力になると想っています。

 

植松死刑囚が死んでも、この問題は解決しませんからね。

 

私の仕事の立場から今回の事件は、自分の存在価値、生きている意味に悩み、「自分も何かしなければ生きる価値はないんじゃないか?」などの大きな不安を抱えていく中で、社会で必要とされる、世の中の役に立ちたい力が、間違った方向に向いて起きた可能性が高いと考えています。

 

植松死刑囚が死刑判決を受けて、最後の発言を拒否された時に笑みを浮かべたとあります。

 

真実は彼にしか分かりませんが

 

 「お前ら(社会)は俺が投げた問いから逃げたな」

 

という気持ちが少なからずあったのではないかと思います。

 

自分自身や大切な人を守るため、強いてはこうした事件を二度と引き起こさないためにも、感情論や特殊で悲しい事件という幕の閉じ方はしたくないと個人的に思ったので、今日は思っていることを書きました。

 

現代の若者が、悪いことにしても【本気】で叩きつけてきたこの問いに私たち大人がどのように応えていくのか?

 

そんなことを考える朝です。

 

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プロフィール


はじめまして。
元警察官で現在は成人非行更生を
専門としたカウンセラーをしている
内藤佑と申します。

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