こんにちは。
津久井やまゆり園の無差別殺傷事件の犯人である植松被告の死刑判決がありましたよね。
障がいのある方々を人間として認めず反省もしていない被告の死刑は至極当然だと個人的には思います。
ただ、この事件も
感情論
を捨てて、考えることも大切ですので、あなた自身の考えを一度整理してみてください。
植松死刑囚がこれまでに社会に訴えてきた発言には以下のようなものがあります。
・「障害者が人間ならば、彼らが罪を犯した時、同様に裁かれるはず」
・「知的障害を理由に裁かれないと言う事実は、彼らが人間ではないことを証明している」
・「氏名が公表されず、遺影もない追悼式は、彼らが人間として扱われていない証拠と考えています」
・「私は介護施設で数年間現場で働いてきた。彼らが家族や周囲に与える苦しみ、そして使われる膨大な費用、職員が置かれている過酷な労働環境を見てきた。あなた方はなぜ、施設に足を運んだことすらないのに、理想論をさも正論のように述べることができるのか?あなた方は一度でも介護に携わったことがあるのか?少しでも現場を知れば、介護は綺麗事だけではないことがわかるはずだ」
そして何度も口にしてきた言葉に
「意味のある命」「意味のない命」
「役に立つ人間(命)」と「役に立たない人間(命)」
と言うものもあります。
植松死刑囚は私が何度もお伝えしてきている
20代前半の’’現代の世代’’
です。
「意味のない人間、役に立たない人間は生きる意味がない」と言う彼らの論理に沿う形に、今回の死刑判決はなったと言う視点もあります。
「死刑に値する罪を犯したのだからその論点とは違う」と言う見方もあるかも知れませんが、角度を変えて、反対のその論点で行くならば障害や精神疾患を理由に「死刑に当たる犯罪を犯したが、そうした理由により減刑や無罪」と言うこともおかしくなる。
今回のこの事件を猟奇的で異常な化け物のような人間が犯した悲しい事件と言うことで終わらせてしまうと、今後同様の事件が起きかねないと私は思っています。
意味のない人とみる人もいれば、その人のおかげで幸せを感じる人もいる。
あいつは役に立たないと言う人がいる一方で、あいつのお陰で助かったと感謝する人もいる。
綺麗事ばかりを並べて、本質につながるような、答えに困るような問いには蓋をしたり変人扱いをして排除しようとする癖のある現代社会に対して、植松死刑囚は最悪な結果(事件)を起こして伝えてきたことをもっと本気で考えないとこれから先の福祉に光はないと思っています。
特に今月は命について、いつも以上に考えているので、この報道を見た時にそんなことを考えることになりました。
障がいがあっても、寝たきりであっても、どんな状態でも、’’生きている意味がある’’って自分なりの答えを持っておかないと、子供の自殺などの問題も解決していかないので、今日のブログをきっかけにあなたなりの考えを掘り起こしてみてください。
クライアントの方々はその答えを次回セッションの時に教えてください。
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